パンはなくとも薔薇を求める

お金がないけど豊かな暮らし

さようならアルルカン/白い少女たちー氷室冴子初期作品集ー

 

コバルト文庫で辿る少女小説変遷史」内の「さようならアルルカン」についての記述に興味を持ったことをきっかけに、氷室冴子さんの「初期作品集」を読んだ。

あとから知ったのだが彼女も私と同じ北海道出身ということで、私は札幌人ではないのだがそれにしてもなんとなく親近感。実際、札幌の女子校を舞台にした作品もちらほら。

 

以下、それぞれの短編について。

 

「さようならアルルカン

コバルト文庫で辿る少女小説変遷史」で「少女たちのナイーブな関係性や感情、張りつめた自意識や孤独を硬質な文体で綴った作品」と作品が紹介されていたことをきっかけにこの本を手にとった。

「硬質な文体」というのが具体的に何をさすのかわからなかったので「いっそ本文を読んで納得しよう」と思ったことが一つ、それはそうと「硬質な」という表現と私が氷室冴子さんに持っていた印象がどうもそぐわなかったことを不思議に感じたことが一つ。というのも、私はそれまで彼女の作品は「なんて素敵にジャパネスク」しか読んだことがなく、こちらは口語調のくだけた雰囲気という印象が強かったからだ。

そしてなによりも、「少女たちのナイーブな関係性や感情、孤独」を描いているということが後押しになった。私はもう少女とは呼べないだろう年齢になった今でも、このような感覚を描いたものに共感するし、こういったものごとを描いた作品にぜひともこれからも出会いつづけたいからだ。

 

書き出しはこうである。

なぜ彼女を追うのだろうか。
この自問に答えるのは容易ではない。
違う高校に別れ別れになってから二年。すでに彼女は過去の人であるはずなのに、しかし確かに現在の私とどこかで結びついているような気がする。そのせいかもしれない。

なるほど「硬質な文体」というのはこういうことかと思った(違ったらゴメンナサイ)。

「自問」「容易」といった漢語ベースのワードが使われている。漢語ベースだと、柔らかいというよりは、硬い印象になる。

この小説は一人称であるので、語り手は大人びた、どちらかというと理知的で賢いタイプの女性なのかと想像できる。

実際、「彼女」柳沢真琴のほうが早熟で語り手の一歩先を行っているとはいえ、語り手の少女も高校二年で「銀の匙」や「知と愛」などを読み、読書仲間と語り合うといういかにも知的な生活を送っている。(私なんて、25になるまで「銀の匙」なんて存在自体知らなかった...)

 

この「さようならアルルカン」では、語り手の「私」、柳沢真琴、そして読書仲間の緒美という、それぞれ周囲とはちがった感性をもっていて早熟で、自分の世界をだいじにするからこそ「仮面」を被り、道化のようにいつわりの自分を演じて生活せざるを得なかった3人のそれぞれの成長と友情を築く過程が描かれている。

「仮面」については「薔薇」と「虞美人草」という二つの型が提示される。

「そういうあなたは?あなたもなかなかの曲者じゃなかったの。聞き違いでなければ、あなたはさっき「きみも仮面の人生を送ってきた」云々といったけど、もという副助詞は意味深長だ」
「ぼくは昔、薔薇でした」
緒美はすましてそういった。その奇妙な答えに、私は噴き出した。
緒美はけっして美少年ではない。ごく普通の、少々おとなびた顔つきで見栄えがする、という程度の高校生である。いわば、むくつけき男の子である彼が、「ぼくは昔、薔薇でした」などといえば、噴き出したくなるのも当然だった。
(中略)
「薔薇とは、なるほどな表現ね。強いがくに花首を守られて頭を上げ、棘をもって手折ろうとする者の手を傷つけてきたのね」
(中略)
「あなたが薔薇なら私は何かしら」
「ぼくはそんあに植物名を知らないんだ。風の吹くままに揺れて、いつも頭を下げている花...虞美人草かな」
「な...る。細いくきには無数の柔らかな棘があるしね。......ふむ......なんかいやに優雅ね。薔薇とか虞美人草とか」
私はなにげなくいった。
「そうだなあ。しかし優雅ってのは反面もろいもんだろう。ふたりの間には、明白な類似点が見られるな、うん」

「優雅ってのは反面もろいもんだろう」という緒美の言葉がささる。そう、もろい自分をまもるためにつけた仮面が、さらに傷を招いてしまうこともある...。

 

なんであろう私自身も、学生時代は「仮面」で生活していたものの一人だ。柳沢らほど早熟ではなかったので該当する時代は大学時代だけれど。高校までにありのままの自分で生活してきた結果、周囲から遠巻きにされたり、陰口をいわれたりといった生活に疲れはててしまい、大学では同じように疲れ、傷つきたくはないと、「虞美人草」として生きることを選んだ。

結果は芳しいとはいえない。高校時代孤独をわかちあっていた友人とは(そのせいだけ、ということもないが)疎遠になってしまったし、「都合のいい女性」を搾取しようとする悪い人もたくさん寄ってきたし、本来はもっと得られたはずの多くのきっかけも失ってしまったように思う。仮面をはがせたのは、私のことを理解しようとしてくれ歩みよってくれたパートナーや友人といった周囲の人々のおかげだ。今も、彼らと良好な関係を築きながら、同時に世界と良好な関係を築きつづけることへの模索を続けている。

 

作中では、柳沢と緒美は絵の世界をみつけ、内面との折り合いをつけながら世界とのつながりも保つ形で成長していく。語り手はおそらくのちに小説をかきはじめるだろう。そして私はこのように、世界の片隅で本や映画との対話を続けながら一歩一歩進んでいる。

 

 

「あなたへの挽歌」

こちらもまた、知的で早熟な女生徒が語り手である。「私」の、「都落ち」してきた新人教師への期待と失望。

 

こちらも「少女的」な感性をとてもよく捉えた作品である。

少女的、というと曖昧な表現だが、私はこれを読んで「少女らしい潔癖さ」といわれるものの正体を知った。そしてそれはたしかに私も持っているものであった。

語り手、そして「少女」にとって重要なのは、他人の目を気にせず、こびへつらわず、ただただ自分の信念や理想に率直であること。プライドをもつこと。孤独をおそれないこと。

作中では、「王者のしたたかさと少年の純粋さ」、「自分の力を疑うことなく信じている幼い少年の無垢さ、傲慢さ」「少年のように純粋に。少年のように傲慢に」「ほか を寄せつけなかった朗らかな自負心」「自ら孤独を望み、密かに野心をもやす皇子」などと表現されている。

それらを失い、有象無象との馴れ合いに、単純な幸福に満足してしまうような人では、少女のお相手にはふさわしくないのだ。

 

...それにしても、17歳にして「この歳にもなったら、好きな詩人の一人や二人くらいいる」というのはすごいですね。私は未だに詩はほとんどわからないです...。

 

 

「おしゃべり」

こちらは、前二作とはちょっとちがった主人公像がとられている。内向的でインテリタイプというよりは、容姿がよく明るく学校の人気者であるタイプだ。しかし、文体はどちらかというと硬いままなので多少、人物像との乖離の違和感がある。

ピリリと効いたオチが秀逸。海外の皮肉っぽいショートショートを読んだような読後感で、個人的には好きなタイプだった。

 

 

「悲しみ・つづれ織り」

幼馴染の男の子への失恋のお話。しかも恋敵は同じく幼馴染の女の子ということで、なかなか複雑...。

 

「です、ます」体が採用されていたりと、ちょっと雰囲気がここまでの作品とはちがっている印象。

内容というよりは、ところどころに出てくるキラーフレーズの数々に心を打たれた。

好きな男の子の家で彼のお気にいりのレコードを聞きながらのこの会話。

ーー知ってる?マルセル・ムルージって小説も書いてるらしいんだ。唯、読書好きだろ。知ってる?
ーー知らないわよ、そんなの。私、少年少女世界の名作全集オンリーだもの。

「私、少年少女世界の名作全集オンリーだもの」。なにこれ、ほんとクール。

そして、ずっと事実上恋人であったはずの少年への失恋を知った語り手のこの言葉。

私と湖の間には、友情以外の何もなかったのを、何かあるように、ふたりがふたりとも誤解していたにすぎないのだから。

そして、気持ちがぐしゃぐしゃで日記を書きながら、むしろ心が荒れてしまう語り手のこのシーン。

悪い人たちじゃないのだ。私も冷静にならなくては......
耐えられず、私は鉛筆を握りしめ、故意に芯を折りました。
いま書いた日記の部分を破り取り、くしゃくしゃにして、大きなモーションでくずかごに投げ入れました。
理性では、すべてが理路整然と処理できます。日記には、どんなことでも綴れます。けれどそれがなんの役に立つでしょう。私はいま、こんなにも悲しい。

感情に飲みこまれているように一見思えるのだけど、「故意に」芯を折ったという描写が鋭く効いている。100%感情に支配されているのではなく、どこかで冷静に見ている「私」もいる、という状態の端的な表現。

 

 

「私と彼女」

こちらはコメディで、この作品集では異色の作風。

ひょんなことから年下の女の子と「同棲」することになる女性主人公の日常が切りとられている。

 

そうね...、コメディやお笑いって、どうしても時代性をぬぐい切れないところがある。それが良い意味での時代性ならよいのだけど、今見るとどうしても「偏見」だなあと思ってしまう箇所がちらほら。この作品についていえば、同性愛に対してキモがったり、茶化したりしている部分がどうしても受けつけなかった。

ただ、やはりストーリーテリングが上手いので、それでも最後までおおむね楽しく読めたのは事実。

ここまでの作品がもう少し「文学」寄りだったので、こういったエンタメ要素の強い作品も高い水準で書けることに才能を感じる。

 

 

「白い少女たち」

こちらは文学に多少戻りつつ、ドラマ性、エンタメ性もふんだんに入れ込んだ作品。私の中では「氷点」と近いカテゴリに入った。

この「白い少女たち」は、「さようならアルルカン」とならんで表題作ということも納得の定評のある作品であるが、個人的には、上記したように似たような味の作品は氷室作品でなくても読めること、そして私があまりストレートなシリアスと言えばいいのか、「ドラマティックな重い・悲劇的な過去」設定を付与すること、そこから生きることや死ぬことに迫っていく、という方向性が好みではないのであまり気にいらなかったと言ってよい。

 

しかし、「寄宿舎もの」としてのこの作品に関してはそのジャンルが好きな自分としては素晴しいと感じたことは否定できない。

「鬼の舎長・ジュダ」というキャラクターだとか、容姿端麗・頭脳明晰・全校生徒に慕われる完璧な同室の子、だとか、なんだかよくある男子寄宿舎ものを女子でやったような雰囲気。そう、たとえるなら「トーマの心臓」の女子版だ。

もちろん男子の寄宿舎ものも最高なのだけど、やはり私も女性であるので、「これを全員女性で見たい!!」と思うことはしばしば。

たとえば女子の寄宿舎もので有名で私も読んだことのある作品では「マリア様がみてる」などがあるが、これは「女子特有の」文化になってしまっている点で、多少ずれている。男子でもやっていることをそのまま女子にスライドさせたものが、見たいのだ!!

この作品は、上記のような私の欲望を十二分に充たしてくれた。

読んでくださった方で、ほかにも同じような「女子寄宿舎もの」作品を知っているよ、という方が居ればぜひ教えてくださいな。

 

 

全体として見ると、「さようならアルルカン」「あなたへの挽歌」がこの作品集で気に入ったツー・トップ。

ほかの氷室冴子作品を読んでいくというのもよいのだけど、「ざ・ちぇんじ!」以降はコメディちっくな一人語りもの、になっていく印象があるので、私の好きな傾向とはずれるかな。「さようならアルルカン」「あなたへの挽歌」は伝統的な少女小説の流れを正統派として汲んでいる作品たちだと「花物語」をすでに読んでいる私としては考えているので、次に読む作品としては「乙女の港」を選ぼうか、と画策している。

 

言及した作品たち